ラピュタと君の名は。とスポ根
- 牧野誠司
- 寄り道コラム
私は言うまでもなくラピュタ世代なわけですが、広くアニメファンであり、新海誠監督の作品にも当然注目しています。
新海誠監督の作品には、ノスタルジックな美しい映像と、それにマッチした楽曲を組み合わせたシーンがふんだんに盛り込まれていて、シナリオどうこうよりも、そのような人の心を掴む(というか、掻き立てる、締め付ける)ような映像・音楽・ストーリーを制作・統合する力がすごいのだろうなと個人的には思っています。
では、「物語のそのもの」についてはどうかというと、基本的には、我々古い世代には共感できない(言い過ぎ?)ものが多いので、なんでだろうなこれは・・・と思っていたのですが、最近なんとなく分かってきたように思います。
もちろん、断片的、短絡的なまとめですので、全てを正しく分析できているわけでは全くないですが、一面ではこの推測は当たっているのだろうと思っています。
そもそも、ファンタジー作品について、「辻褄が合わない」「無理がある」などと難癖をつけるのはだいたいがナンセンスでして、古来から、ファンタジー作品においては、天空に城が飛んだり、女の子がホウキで空を飛んだり、主人公が豚だったりと、現実社会ではあり得ないことを前提としつつ、そのあり得ない前提(読者・視聴者との、「ここまではOKだよね」という暗黙の約束事)の中で、登場人物がどう動くのかを楽しむというのが暗黙のルールになっています。
ですので、男女が入れ替わろうが、入れ替わった間の記憶がなぜか薄れていこうが、過去と未来を行き来できようが、それは「程度の差」であって「質的な差」ではなく、視聴者・読者の許容量の差にすぎません。
しかし、我々古い世代が、こういった「新しい物語」に違和感を感じる大きな原因は何かというと、「ほんとに何でもない、ふつーの、こう言っちゃ悪いけれど周りの友達と比べてなんら特別な努力もしていない(さらに言えば、ルックスだけが非常に良い)子どもが突如世界を救ってしまう」ということの説得力のなさではないかと思っています。
我々が夢中になった宮崎アニメでは、親が早くに亡くなって一人で炭鉱でフィジカルを鍛え上げられてきたパズーや、天才泥棒で海千山千を乗り越えたルパン(身体能力も異常に高い)や、村のリーダーで一人孤独の中研究を続けるナウシカ(戦闘能力も異常に高い)や、天才パイロットで友人をすべて戦争で亡くしたのに自分だけは生き残った豚が主人公で、彼らの才能や彼らの努力、彼らの経験があったうえで、危機を乗り越えられるというのが基本的な物語の中心線だったように思います。
他方で、キキや、雫ら、才能があるのかどうか分からず、まだまだ努力もスタートあるいはプロセスの段階にある主人公については、彼女らが対峙する問題は、あくまで個人的なレベルの問題であり、「世界を救う」というレベルではなく、せいぜい「飛行船から落ちそうな友人を助ける」という程度のものでした。それぞれの主人公には、才能や経験や努力に見合った課題が与えられていたわけです。
言ってみれば、我々は、スポ根の時代に生まれ育ち、才能と努力が未来を切り開くと信じていましたから、こういう設定に強く共感し、感動していたのだと思います。
ですので、我々古い世代は、「単にルックスがいいだけの主人公」が「積み重ねた努力などは全くないのに突如世界(あるいは町)を救う」という設定自体に、違和感と拒絶反応を示してしまうのではないかと思います。
しかし、今の世の中で、このような作品が、世界で広く、膨大な数の人々に認められている理由は、実際のところ、現在の世の中でも、「泥臭い、積み重ねた努力」や「人の目に見える才能」というよりも、「世の中の共感を呼ぶアイディア」や「世の中に便利なアイディア」をふと思いき、「チャンスを逃さずつかみ取った人」が巨額の富を築くような時代になったからではないかとも思います。
健康の重要性は変わりませんが、フィジカル・身体能力の重要性はほぼ全くなくなりました。したがって、若者には、「なんでもいいから目の前にあるものを嫌いでも努力しろ」「血のにじむような練習をしろ」というよりは、「心身の健康を保って自由な発想を持とう」「能力や才能があるかは別にして、チャンスだと思えば行動しよう」ということを教えるほうが成功の可能性が高くなってきている時代が到来してきているように思います。
そうすると、今の若い世代は、「突如訪れるチャンス」「一個人が世界を変える可能性」について、我々古い世代よりも受け入れる準備ができており、突如男女が入れ替わろうが、未来と過去を行き来できようが、さらには、なんの特徴もバックボーンもない高校生が隕石から町を救おうが、「そういうこともあるかもね」というように、寛大な気持ちで受け入れられるのかもしれません。
そして、実際に、現実社会でも、一昔前より、「積み重ねた努力」がなくても成功する事例は増えてきていますし、「成功のための地道な努力」よりも「成功を信じる」というマインドの方が重要になってきているのかもしれません。
そもそも、血のにじむような努力は、一部のラッキーな人には成功をもたらしていますが、その他の多くには、過労死やパワハラや鬱などの大きな問題ももたらしていますから、この若い世代の感覚・方向性も、全然間違っていないとも言えると思います。
というわけで、最近の作品が多くの人に受け入れられる理由は非常によく理解できるところですし、それが現実社会の進んでいる方向性とフィットしているようにも思います。
そしてそれと両極にある、旧来からの「才能・努力・経験至上主義」の大きな問題点も確かにあり、それを称賛していた過去の作品の弊害やうさん臭さも認めざるを得ないところかと思います(というより、ちょっと振り返れば、ガンダムやエヴァンゲリオンなどの作品はとっくの昔に旧来の価値観に沿わない世界観を作っていましたね)。
しかし、私のような古い普通の人間は、どうしても、腐海の謎を解くために地下室で一人で腐海の植物を研究しているナウシカの方が、仮にその努力が報われずに終わったとしても、突如男女が入れ替わる運命に出会ったことで隕石から町を救うことになった主人公よりも魅力的に思えてしまいますし、若い世代の皆さんも、無理をしない範囲で、そういう古い価値観への憧れや共感などは持っておいてほしいなと思っています。
そして、弁護士は、ご依頼者からご依頼者の人生・事業をお預かりするわけですから(自分の人生だけの問題じゃないですから)、「さほど努力せずに成功するタイミングを待つ」というだけでは全然ダメでして、地道に資料に目を通し、日夜努力して、限られた自分の才能をフル活用して、パズーのように、スポ根でご依頼者に尽くすしかないんですよね。